バラ科、モモ亜科、サクラ属
2013年4月19日、京都府立植物園
金沢の兼六園にある兼六園菊桜に付いての記事を「tenki.jp」からコピーしました
約40種類、420本ほどもある兼六園の桜の中でも最も美しいと言われているのは、「兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら)」。一般的に菊桜の花弁は150枚から200枚。「兼六園菊桜」は花弁が250枚から400枚近くもあり、日本で最も花弁の多い、珍しい品種です。
開花期は4月下旬から5月中旬までの約3週間。ソメイヨシノなどと比べると長く楽しめますね。色の変化にもご注目。はじめ濃紅色だったつぼみは、開花とともに次第に淡紅色に変わります。そして、花の終焉の頃は、白に近いピンク色に。花びらは一枚一枚散るのではなく、柄をつけたまま落下します。
初代の「兼六園菊桜」は、江戸時代に前田家が京都御所から賜ったと伝えられる歴史ある桜。昭和三年には、国の天然記念物に指定されました。桜の保存のために全国を行脚していた14代佐野藤右衛門は、「兼六園菊桜」を一目見るなり「このままでは余命いくばくもない。後継ぎを養成することこそ急務」と判断したそうです(『桜守三代 佐野藤右衛門口伝』)。「兼六園菊桜」の命を後世につなげる物語はここから始まり、約40年間にも及ぶのです。
ある桜と同じ性質の桜を作るには、その桜の「接ぎ穂」(芽がついている枝)を30~45cm程切り、台木となる桜に接ぎ木をする必要があります。佐野家は京都の造園業「植藤造園」を営む家系。「兼六園菊桜」と対面した14代藤右衛門は、すぐに石川県土木課にかけあったそうです。その後何度も金沢を訪れ、ようやく昭和6年に「接ぎ穂」を入手。ところが、この接ぎ木で育てていた貴重な桜は、太平洋戦争中から戦後の混乱期に行方不明に・・・
15代藤右衛門は、父の思いを継ぐべく、昭和34年から毎年「接ぎ穂」を譲り受けに兼六園へ。しかし2年続けて接ぎ木は失敗。昭和36年に15代藤右衛門に同行した16代藤右衛門は、その時のことを次のように語っています。
「それだけやってあかんものならもう切らんといてと言われたんですわ。もう桜自体が弱っていきよるから、接ぎ穂のためとはいえ切ったらなお弱りますわね。(中略)何とかもう一度だけと頼んだんです。これでつかなければ接ぎ穂を得る望みはない、老衰やと思って諦めようと。(中略)とにかくもういっぺんだけ、ということで、朝日がでる、夜露がまだ光っているときに、接ぎ穂を切って、それを口にくわえて京都まで持って帰ってきたんです。」(『桜のいのち庭のこころ』)
「接ぎ穂」の運搬は15代藤右衛門も色々工夫したけれどダメだった。「それやったら、もうとにかく俺と一緒やぞ」と、口に10本の「接ぎ穂」をくわえたまま、京都まで車を運転して帰ったというのです。兼六園から植藤造園までは約270km。想像を絶する道のりだったことでしょう。この10本のうち、1本だけが奇跡的に生き残ります。
「これでダメやったら、兼六園の菊桜は後世に残らへんのやから、こっちも必死ですわ。夜半に雨の音がすれば、布団から飛び起きて畑まで飛んでいって傘をかけてやったり、ふだんから虫がつかないように手当てをしたり、大変に苦労して育てまして、接ぎ木の成功を確信したのが3年後やった。」(『櫻よ「花見の作法」から「木のこころ」まで』)
そして昭和42年、初代「兼六園菊桜」が枯死し、植藤造園で育てられた2代目が兼六園に返されたのです。
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